Caprice

“Caprice”は「気ままに」って意味です、気ままなLifeのらくがき帳、おもしろい事、楽しい事、興味のあること、ハンドメードまで“カプリス”です!!
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フランス紀行 セーヌ川

セーヌ川、三日目の朝

朝、セーヌ川の周辺を散歩する。


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セーヌ川

ギョーム・アポリネールの詩
ミラボー橋の下をセーヌ川が流れわれらの恋が流れる・・・・


散歩の帰りにフルシ―通りを日本人らしき女性2人が歩いていました。
異国で日本人に会えるととてもほっとします。つい日本人ですかと声をかけると気さくに話してださいました。
娘さんが留学されていてこの近くに住んでいてお母様が尋ねてこられたそうです。
今、パリはバーゲンシーズンで買い物に行く途中とのことでした。
親子でパリっていいですね。


ホステルフルーにもどると今日はとても騒がしい沢山の子供達が夏休みで泊っていました。


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フルシ―の庭

子供達がはしゃいでいます。
私を見て東洋人はやはり珍しいのか不思議そうに笑っていました。
窓から手を振ってくれたりもします。
フランス人の子供たちはとても素直です。
そんな印象をこの先も感じました。
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フランス紀行 サン・ポール2 

ガール・デ・リオンで待ち合わせ

GARE DE RYON(ガール・デ・リオン)はガールが駅、リオン駅と言う駅だと旅行前にアドバイスしてもらった。
パリではこの駅から南に向かう玄関になりちなみに北駅(GARE DE NORD)が北に向かう玄関になるらしい。
さて、地下鉄でST・PAUR(サン・ポール)から二駅、たった二駅、まだパリの地下鉄の様子が分からない。
カルネ(地下鉄の切符)買い方はわかるだろうか?また改札はうまくとうれるだろうか。とても不安。

ホステスから地下鉄は目と鼻の先、でも地下鉄の階段を下りるときとても緊張長い廊下があればスリに狙われるのではないか、人影がなければとか、ところが何も心配することはなかった。短い階段をおりると直ぐ改札、利用客も多い。ここは地下鉄①番線でパリのド真ん中マレ地区、観光客の利用もすごく多い線だった。

切符を買うのに券売機もあったけれど。窓口にいくと、券売機でと言われる。
英語の説明に合わせてそうさする。お金を投入しょうとするけれど何かそうさが必要で小銭が投入口に入らない。
もたもたしていると。近くにいた人がとても親切に教えてくれた。
切符もクリア、次改札、前の人にならう切符を自動改札機にとうして自動改札機本体(ターンステーブル)にタッチしたら扉を押す。

少し切符をいれてから改札が開くようになるのにワン呼吸いるらしい。この後なれるまで切符をいれて改札が

開かないので2回ぐらい駅員さんに切符を変えてもらったりもしてしまつた。

次、ホームに降りるまでに行き先の、駅名が書いてある表示板をチェックして、ホームへ。クリアー

ホームの表示は少なく、駅名も一か所しかない。発音も分かりにくいのではじめは乗ってから何番目の駅か数えな

がら降りていたけれど、なれると心配しなくても、乗る線の電車にもよるがの扉の横上に電光掲示板が

付いていた。

次、電車に乗る。スりに注意、なるだけ、人に触れないょう、扉の横に立つ。(油断はしたらだめだけれど

なれるとこの線は本当に観光客が多く何だ心配はなかった。)。

そんな慣れない私の姿が滑稽なのかみんなにこやかにほほ笑んでくれる。これはパリにいる間もアビニョンに行っ

てもそうだった。東洋人が珍しいのかとても温かく見守られている感じだった。
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サン・ポールの駅の近くのメリーゴーランド

これが目印になりマレ地区も広いけれど
散歩しても迷うことわなかったです。



ST・PAUR(サン・ポール)、BASILLE(バスティユ)、GARE DE RYON(ガール・デ・リオン)

途中、バスティユってバスティーユつて「ベルサイュの薔薇」のって思い感動、河が見えるこれがあのセーヌ河?

なんてまだパリがわからなかつたからみのるさんと帰りの地下鉄で聞いてみました。きっとそうだねって。

そうでした。「ベルサイュの薔薇」でした。当たり前、ここはフランスだからしかもパリ。

物語の舞台の土地の名前って聞いただけれもなぜか感動。目がマンガの絵みたいにキラキラしちゃいます。


さて、リョン駅、無事に到着。

二駅といえど私にとっては冒険でした。

まるで子供の「はじめてのお使い状態」、だって私は

何度も言いますが、英語もフランス語もはなせないんですから。

それでもリョン駅は昨日きた駅です。何とか直ぐにわかりました。

みのるさんが駅の待ち合わせ場所でスーッケースを持ち待ってくれていました。

ほっとするし。とてもこころ強かったです。

知り合いの日本人にこんなん遠い異国で会えるなんてすごいと思いました。

来られているのは知っていて、お会いしましょうとは言っていましたが。

約束どうりに会えたことも嬉しかったけど。

とても不思議な感じでもありました。

東京で関西の知り合いに出会った時もびっくここって「東京だよね」って不思議な感じでしたが。

ここは異国ですから。もっと不思議でした。

みのるさんはもう一カ月も先にヨーロッパを旅して周られていたのです。

しかもインスピレーション詩人として活動しながら、自分の才能だけでお金を稼ぎ活動しながらの旅人って、

日本人としてとても貴重な存在だと思います。

この度、私をこの旅に導いてくださった人もそうでこの後、日本人だけでなくアビニヨンでは沢山そういう

方達に出会います。

とても貴重な出会いです。

みのるさんとこの後まだこの日の宿を決めておられずスーツケースの駒がこわれていたため、私のいるとホステル

に泊る為に一緒にサンポールに来ることになりました。

私は始めからアビニヨンに行くまで三泊四日、ホステルに予約を入れていたのです。

その前にアビニョン行きのTGB(日本の新幹線)のチケットを買いにいきました。

TGBのチケットは当日買えない場合があり買う時期にょって値段がちがいます。

なのでみのるさんは次の日のチケットをわたしは二日後のチケットを買いました。

チケット売り場で2人で並んでいる間も東洋人なので珍しいのか並んでいる陽気な黒人の伯父さんに

話しかけられ、からかわれましたが。とてもホットな伯父さんでした。これも少し楽しい思い出です。


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サン・ポールの駅前のカフェです。
パリはカフェだらけです。
パリはどこまでも続きどこまで行っても尽きることなくカフェ、カフェ、カフェ


チケットを買って、サン・ポールにもどりカフェで食事をしようと思いましたが注文のしかたが分かりません。

それにみのるさんはもう一カ月も異国生活で

中華が食べたいとのことで中華屋さんにいきました。がここでも注文の仕方が分から。

数品注文したらお皿いっぱいになり、持ち帰ったぐらいでした。

味はとても美味しかったです。その日の夕食にしました。

その後、ユースに行き泊る予定でしたが、あいにく予約がとれず、みのるさんは

ブローニューの森のキャンプ場に行かれました。

重いスースケースの駒がこわれ引きずりながらとても気の毒でした。

また数日後アビニョンでお会いしましたが。

その後も駒は壊れたままで大変だったと思います。

なかなか、日本だと直ぐ修理に出せばいいけど移動もあるしなかなかそうも行かず

ハプニングがいろいろ起こります。

それでも日本人、海外で頑張ってます。



フランス紀行 サン・ポール1

サン・ポール7月5日

この日、前日、メールをもらった北野インスピレーション詩人のみのるさん(一か月前からヨーロッパを旅していた。昨日、オランダ、アムステルダムから入国)とお昼にリオン駅で待ち合わせた。

朝、まずはホステルで朝食

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ホステルの庭の風景

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ホステルの周辺の風景
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ホステルの玄関前の風景

フルシ―の玄関前には

父に捧ぐ

フランス紀行まだまだ前半しか掲載していませんが

本日は8月15日、お盆でもあり67年目の終戦記念日でもあります。

私の父の供養に少しそのことについて触れたいと思います



父に捧ぐ終戦記念日にそえて


私は戦争を知らない子供たち世代です。

ただ私の世代では珍しく父は大正13年6月13日生まれでした。

13年前に75歳で亡くなりましたが生きていれば85歳です。

父は青春時代、海軍に志願し大日本帝国海軍でお国のために戦った人でした。

それは父の誇りでもありました。

そんな風に今の時代話すととても滑稽ですが、戦争を知っている生き証人としてはとても

貴重な体験を私達家族に話し聞かせてくれたのではないかと思います。

少し父から聞いた戦時中のお話をしたいと思います。

父は松下電気(今のナショナル)の専門学校を経て、横須賀の兵学校、海軍後期学校に志願したそうです。

海軍では攝津(潜水艦)に乗り、下士官として機関兵として勤務していたそうです。

兵学校は厳しく随分しごかれたとききました。グループで誰かミスをすると全体責任で上官からひどく叱られ、

某でひどくおしりを殴られたそうです。「歯をくいしばれ」と殴られ、おしりの皮がすりむけて、

座れなくなるほどひどく殴られたそうです。軍隊では日本人は同じ日本人でありながら

随分ひどいことをしたものです。

ただ海軍は船に乗るととても紳士的な軍隊で、西洋のマナーなども学んでいたようです。

食事の時はテーブルマナーも厳しく正装してテーブルにつくといった感じで陸軍とは違いとても優雅な場面もあっ

たようです。ほんとに父の軍服姿の写真や軍隊時代の写真が残っていますが、戦時中でありながら凛々しく

イギリスの衛兵交代を思わせます。

なので父は少し西洋人的な感覚でとてもお洒落な人でした。

またたばこやチョコレートなど配給があり食事もとても良かったようです。物のない時代に

家族のために配給された物を休暇の度に持ち帰っていたようです。

その時代亡くなった人たちはお国のために死んでいったんだと言われ。

本音は「お母さん」と叫んで死んだんだと・・・

誰もお国のためだけに死んだのではないことは事実でしょう。

軍隊に志願したひとたちは、日本国に洗脳されて志願したんだと言う人もありますが。

恐らく物のない時代少しでも家族の為にお給料や物資を持ち帰る為に志願したというのが

本当の気持ちだったのではないでしょうか。

戦場で亡くなった人たちの多くは家族の為に命をおとしていった。

誰ひとりとしてお国の為にと何の恨みもない人達と戦うこと望んではいなかった。

軍隊の上層部以外のほとんどの日本人は他国の人と殺し合う理由はなかったはずです。

ただ無理に召集されたり、家族を養うためではなかつたかと思います。

おかげさまで父は潜水艦の機関兵でした。

一度も人を殺めることなく、終戦をむかえました。

それがとても救いです。

だからこんな風に話が出来るのだろうと思います。

ただ父も、何も見なかったわけではありません。

多くの戦友達が戦地で亡くなったわけではなく訓練中に亡くなった人も沢山いたとの話しです。

皆、戦士と家族には知らされていますが、多くが違う理由で亡くなっているのです。

父の兄(私の伯父は)南米に派遣され、部下がいなくなり気がつけば人食い人種に食べられていたとの話

しも聞きました。

母方の祖母はビルマに派遣され、ジヤングルでトラに襲われた人もいたとのはなしです。みんな家族は

本当のことは知らされていないけれど本当にひどい話です。

チヨット祖父の話しにも触れたので少しここで祖母のお話もしたいと思います。

私の祖母は終戦の5カ月前の4月16日に33歳の若さで私の母を含め4人の子供達を残して

結核で亡くなりました。母は長女で小学2年生だったそうです。あと上に兄と下に弟と三歳の妹がいました。

祖父が戦争で召集されているため。兄弟バラバラでひきとられ、物のない時代小さな弟と妹は親戚の家で随分時

じやけんにされたようです。あまりひどい目にあった妹は子供のいない親戚にもらわれていきました。

その後もけして幸せではなかったと叔母ははなします。数年前、岡山の祖母の生まれた家を母と尋ねました。

昔、母は兄弟達と暮らした家に行ってみたかつたのでしょう。

ここで母は育ち、暮らしていたのだと思いました。母が幼いころ鶏が卵を産む度にままごとに

使いおばあさんにおこられて閉じ込められた、大きな蛇(主)のいる蔵、竹林、母の思い出話がそこにありました。

私は祖母の家にそれまで一度も訪れたことがなく全く親戚の付き合いもなかったことにとても残念に思いました。

祖母が生きていれば出会っただろう親戚達との思いでがいっぱいあっただろうに。
 
戦後、67年、たってもいえない母達の心の傷、そして私達の運命も大きく変わったことだろう。

けして、戦争は私達、戦争を知らない子供達と無関係ではないのかもしれません。

とても尊いものを私自信もいっぱいなくしたのだと思いました。

祖父は戦後再婚し最近その義理の祖母も最近なくなりました。

義理の祖母のご主人は特攻隊でなくなったそうです

お燗の経帷子の祖母の顔はつらい時代を生き抜いた、そんな顔にみえました。

新しく手に入れた家庭をまもるためでしょう。

私の母につらくあたったこともあつたと話を聞いたことがあります。

亡くなる前祖母は母に「堪忍ね」となんどもあやまりました。

67年の母の深いこころの傷あとです。

でも、義理の祖母は母が結婚してからはとても私達家族に良くしてくださり。

私もかわいがってくださいました。

みんな仲良暮らせたはずがなかなかそういかなかったのでしょう。

それを思うととても残念です。

いろんなことで人の運命なんてかわるのかもしれないけれど。

考えればかんがえるほど残念におもいます。

でも、母と私はとても幸せです。

明日、命がないかもしれない時代を生きた父は深い思いやりを持ったとても優しいひとでした。

軍隊で友達が戦士していくなかで悲しいという感情はなく明日は自分も、そうなるかもしれない。

今の時代、何があろうと命をとられることはない。何があろうとたいしたことではない。

良く、そんなことも話していました。

「ケセラ、ケセラ」で行けばいい。

「くよくよするな どうにかなる。」

死の床でありながら亡くなる前に良く病院で私を逆に励ましてくれたものです。

戦争が終わり67年、父のような生き証人はどんどんいなくなります。

でも私は父からとても大切な魂を育まれたように思います。

戦艦大和が沈み、広島、長崎に原爆がおとされ、多くの犠牲のもとに戦争は終結し

今の私達の幸せな時代があるのでしよう。

人間の思い上がりやおろかさはすべてを滅ぼす。

恐ろしいことですね。

このたびフランスの旅で感じたことですが国境って本当に関係ないって。

人に国境はないんだと

だから世界全体のことを考えて,日本人も目先のお金だけじゃなくて明日に食べる美味しいご

飯のほうが大切ではないかとおもいます。

自然を大切にしなければ水どころか空気も無くなってしまうことを

誰もがわかっているけれど目先のお金で手に入る便利さをなかなか捨てることができなくて。

それだけでなく世の中は複雑になりすぎてとても割り切れない。

でも本気で考えなければならない時代でもあるのでしょうね。

難しいけれど。


終戦記念日、自分には関係ないように思っていた時代もありました。

だけど祖母の生まれた家を訪れ、戦艦大和の映画を観て、

また広島の江田島に行き海軍の兵学校を訪れた時、特攻隊の遺書に触れ、日本人のこころ

を知りました。

終戦が長引けば私は今ここにいないかつたかもしれません。

また、父と母の娘として生まれた私です。

父と母の代弁者として拙いですが8月15日終戦記念日を語りたいと思いました。
 

終わり


次のページは引き続きフランス紀行を掲載いたします。

もうすぐアビニヨンのお話です。

お楽しみください。























フランス紀行 パリの朝

パリの朝の風景

パリでの朝を迎えた、AM7時、4時間ほど眠っただけだけど、とても心地いい目覚め。

まだ、ルームメイト達は眠っている。

なるべく静かに二段ベッドの梯子から下に降りる。

ベットルームの窓は空いたままになっていたようだ。

窓からの心地よい風を感じ。

小部屋に向いシゃレた大きな窓をあける。

白夜は、夜遅くまで明るいけれど、夜明けは少し遅い、ようやく明るくなった時間で、まだ少し薄暗い。

小鳥のさえずりは聞こえるけれど姿はまだ見えない

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窓際にすわり部屋からの景色を眺める。

建物の屋根を見渡す。パリの屋根部屋の風景といった感じ。

こんな朝の風景にとてもあこがれていた。

まるではじめて主人公が一人暮らしで朝をむかえる映画のシーンの様だ。


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窓からの風景

少し時間がたってさらにあたりは明るくなり

暫くすると屋根に小鳥達がとんできた。
 
楽しそうにさえずっている姿をながめていた。

何て気持ちのいい朝だろうか。

しかもここはパリなのだ。


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フランス気候 フルシ―での長い夜

素敵なカミール

ようやくホステルの部屋に案内され少しほっとしていた。
部屋にはいくつか荷物があり二つのベットは誰かが使っている跡があり、
部屋には少しせんたく物も干してあった。
だけどまだ誰もいなかった。
フランスの夏は白夜で明るく夜の10時頃にようやく日が暮れる。夜の8時、
9時は日本の夕方の4時か5時の感覚、一日がとても長い。
私はフルシ―の小さな小部屋の机の前に座り、少し旅のメモ帳などをみなおしていた。
するとそれもつかの間、ドアで「ガチャ」と音がしてとても素敵なきれいでかわいらし
い白人の女の子が入ってきた。
私はとにかくルームメイトに挨拶をしなければと思い。
「BONJUR」「I am Japanisu 」「My neme is Noriko OHno」と伝えた
彼女は、とても不審そうに私を見ているように思ったけれど。
「What You are country」とたずねてみた。
彼女はフランス人でカミールと言う名前らしい。
彼女は、私に英語かフランス語か中国語か韓国語は話せるかと尋ねてきたので。
「English little little little」ジャパニーズしか話せないとゼスチヤーすると。
彼女はとても驚き、困ったと言った感じで、それではこまるではないかといった感じで。
ここにはコウリヤ(韓国人)とフランス人とイタリア人がいるがコウリヤは仲間でいるしあなたは英語もフランス語も話せなければ一人になってしまうではないかととてもそれでは困るだろうと。
それから彼女は考えて、まっていてくれと。部屋のなかの螺旋階段をのぼり彼女の部屋からメモをもっておりてきた。彼女はとても親切でどうやら私の手助けをしたいと言ってくれて。私と話すために私の少しわかる英語をノートに書けといいい。そして彼女も私に伝えたい事を英語でノートにかいた。それをわたしが日本語に直してローマ字でかいてくれと言う。彼女とはその後そうして会話することになった。そうこうしていると彼女のフランス人の友達ミズサと言う陽気な女の子とイタリヤ人の一人で旅行しているらしい女の子がかえってきた。彼女達も私が日本人だと言うことで興味をもってくれた。せっかくなので三人にまた干菓子をさしだしたらとても珍しそうにくながめ、口にはこんだ。反応はベネズエラの少女達と同じようにめおまるくして。笑って美味しいって反応だった。
本当はお抹茶の小さな道具や水で溶かせる煎茶の粉末を持つていたのでいっしょに出したかつたけれど部屋には水もコップもお湯を沸かす道具もなく。そのことをつたえるのに「お湯を沸かす」と一言、言ってからその説明にとても時間がかかってしまつた。その言葉にカミールがとても興味をもちそれを伝えお湯はないだろうかト一時間ぐらい三人で問答してしまった。そのうちイタリア人の女の子とミズサはベッドに向ったけれどカミールは私に興味しんしんと言うかとても気に入ってくれたようで夜中の三時ぐらいまでノートで会話のやり取りがつづいた。私はカミールの質問に根気強く、英語を日本語のローマ字に変えてこたえた。そのうちカミールも疲れシヤワーをすると言い。部屋にもどった。その間に韓国人の女の子達も部屋にもどって来たが彼女たちは、自分達の世界で楽しんでいるらしくカミール達ともあまり話しもしないようだった。
さてようやくシヤワーを浴びて寝ることにした。ただ韓国人の女の子はずいぶん遅く帰って来た。シヤワーがあくのをまった。
実は家を出る日夜中じゅう荷物をまとめていて一睡もしておらず飛行機の中でもうとうととしただけでとてもくたくただった。やっとベットでゆっくり眠れた。4時間ぐらいだけどとても良く眠れた。それにしてもフランスの夜は本当に長かった。もう暗くなってからも。
それにしてもカミールはとても素敵な女の子だ。
こころより

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Merci Camille

フランス記行 パリのユースホステル

パリのユースホステル

ようやくユースホステル、フルシーに到着

青い大きな門の横のベルを鳴らす。

あまりにも頑丈で大きな門、本当にこの扉が開くことがあるのだろうか。

「ガチャ」開いた。

門を入ると左手にフロントがあった。

若い金髪の女の子が荷物を置いて受付のスタッフと話しをしている。

シヤレた椅子がいくつかあつたので座ってスタッフの手が空くのをまった。

私は汗だくでとても緊張していた。

これから英語で受付をすまさなければならない。

スタッフの手があいた。

立ちあがってメモ帳をみながら

まずは、「Bonsoir」

息を継ぎながら

「My neme is Noriko Ohno」

「I Have a Riservations」

息継ぎして

「Can I Check is」

ここまであわてていうと受付のスタッフとフロント近くにいたスタッフがなにやら

おちついておちついてといった感じで

「こんにちは」とすこしからかうように日本語で笑って云ってくれました。

思わずわけもわからず

「Sil Vous Plait」「Merci Beaucoup」と言ってしまいました。

そうすると受付のスタッフは、宿帳を調べフロント近くにいたスタッフが部屋に案内してくれました。

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フルシーで私が泊った建物

フルシ―はとてもシヤレた古い学校の様な建物でした。

私の泊る部屋は5階で長い螺旋階段を登らなければなりませんでした。

はじめ自力で荷物を持つて上がろうとしましたがスタッフが途中持ってあがってくれました。

スタッフはまた陽気な黒人の人ではじめから荷物を持つてあげると言ったのですがあまりにも
重いので気の毒でなんとか自分でとおもいましたが。

階段はオシヤレで途中市シャンデリアなどもあり素敵だけどなかなか尽きることがなく
とうとう手伝ってもらいました。

やっと5階の部屋に着いて中に入ればまた部屋に短く小さい螺旋階段がありました。もうこの階段から荷物をあげるのは無理とゼスチャーすると。部屋は6人部屋で階段上が恐らく屋根裏部屋で3ベットとその部屋に3ベットあり私のベットはその部屋の二段ベットの上にありました。

スタッフは荷物を上まであげずに済んで良かったね。といった感じで。部屋カードキ―を渡してくれました。
「Merci」と言うとスタッフは部屋からさっていきました。

この部屋はベットルームとは別に扉を開けたところが素敵な小部屋になつていての真ん中に螺旋階段があるけれど机や椅子が置いてあり大きな窓がありとてもオシヤレ。

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部屋の小部屋の螺旋階段・・荷物は無理・・
あくる日上に泊った女の子は下に荷物をおいていました。
私がゼスチヤーでそうしたらつて言いました。


ようやく宿のお部屋に落ち着き荷物を置いてほつとする。

日本時間7月4日の朝7時に家を出てフランス時間は7月4日の夜8時過ぎだけど日本はもう時差サマータイムでプラス7時間、7月5日の夜中の3時過ぎのはず、母に無事に着いたと電話するにはあまりにも遅い。仕方なくこちらの朝に電話することにした。


フランス記行 パリに到着

パリ

パリ(シヤルルドゴール航空)到着PM18:00のよていでしたがもう夜7時を過ぎていた。
予定より遅くなり夕方と言うことでとても心配になりました。

白夜で昼と同じ様に明るいけれどバスで市内に出るのに一時間近くかかるという、8時を過ぎメトロに乗ってホテルに行くのはどうだろうか。通勤の時間を過ぎれば人はいないのでないか?いろいろなことが頭をよぎる。

飛行機から降りると皆、速足でどんどん散っていく、同じ便の日本人の人の姿も見えなくなる。
荷物を受け取るゲートがわからないあわてて隣にいた乗客の女性の後を追う。

女性はどんどん進んでいくどうも荷物を受け取る様子がない。追いかけて「パケージ」と聞くと私はなしと言う感じのジェスチヤーで着いてきた道を指さしてくれた。荷物は向こうだとでも言ってくれているようにあわててもどる
と同じ便の日本人がいた安心する。荷物はここでいいんでしょうかと尋ねると荷物のレールのある掲示板をたしかめてくれた。

少し待っていると荷物はすぐに出てきた。日本人の人達は市内までタクシーとのこと。私に女性でもあるし一人なので市内まではバスでもリオンからはメトロに乗らずホテルまでタクシーで行くように」
それと「くれぐれも気をつけて」と言ってくれました。

それからいよいよ一人になりエールフランスのバス停をさがす。

どうも最初女性に着いて行った道が出口らしい。

長いローカ、バスの乗り場やタクシー乗り場はあるけれど
どこがカールリョンまで行くエールフランスのバス停かわからない。

人もあまりいなくなる。ところ構わず受付らしきところで「バスストップ」と尋ねてもあきれ顔をされる。

バス停らしきところで日本人がいたのでバス停を尋ねたら誰かにフランス語で尋ねてくれた
けれど向こうのほうらしいぐらいしかわからなかった。

それでもどうにかこうにかバスの係員らしきひとを見つける。
バス名と行き先を書いたノートを見せた。あきれ顔をされわからないょうだったけれど。

そこにも日本人のご夫婦が1組いて、行き先は私とは違うようだけれどバスはそこで待てば良いことが分かる。
暫くするとバスが来た。係員は荷物に預かり書の札も何もつけずバスに積み込む。

少し不安だけど仕方がない。

バスに乗る時、ガールリョンに行くか運転手に確かめユーロでお金を支払いバスにのりこむ。

バスに乗り込むと少し日が暮れてきているように思った。少し不安になる。
その時メールが届く、一か月先にヨーロッパに来ている
北野のインスピレーション詩人のみのるさんからのメールがはいる。

みのるさんもそのころアムステルダムからパリに到着とのこと。

少しほっとする。

異国で知り合いの日本人に出会えるなんてとてもこころ強かった。メールをもらいとても嬉しかった。・・・

空港からパリまで50分、下りる駅を間違えないようにしなければ。

ガールズリョンに着いた時運転手が知らせてくれた。

バスを降りてタクシー乗り場を探すけれど見当たらない。

リョンのエールフランスバス停には常時、係員のおじさんがいた、

おじさんにタクシーはどこか尋ねたら道の向こうにつれて行かれたけれどどこにもタクシー乗り場はない。
おじさんは上を見ろと指さす。

なるほどガールリョン(リョン駅)はバス道、道路より高いガードの上にあったのだ。

そしてその上にタクシー乗り場もあった。言葉の話せない私にわざわざおじさんは教えてくれたのだ。

重い荷物を持ってバス停前の階段と坂道を上がるとすぐ駅がありタクシー乗り場がありタクシーもいっぱいいた。

タクシー乗り場には沢山の旅行客がならんでいた。

順番を待ちタクシーに乗ろうとするけれどどうも乗車拒否をされぬかされれ乗せてもらえない
タクシーの間で右往左往する。何か話しかけてくれる運転手もあり。

ホテルの住所の書いてあるペーパーをみせても。
話せないからかあきれ顔で他の乗客を乗せていってしまう。

車の間でずっと右往左往している私のすがたを見たフランス人だろう
上品な女性が私の手を引き黒人の真面目で親切そうなタクシーの運転手に
私の持つているペーパーを見せて恐らく「マダムを連れて行ってあげてください」とこうしょうしてくれた。

どうもカーナビのあるタクシーでないと言葉が通じないので行く事ができなかったようで、
カーナビ付きの信頼できる運転手にたのんでくださったようだった。

私はマダムに深々と頭を下げ挨拶した。マダムは「お安いご用です」っと言った感じでとても親切だった。

タクシーに乗りこむとほんの10分ほどでホテルに着いた。

「あそこだろっ」と言った感じで運転手さんは門の前でとめてくれた。

運転手さんも本当親切で私はとても嬉しかった。ほんの少しチップと和紙の折鶴、
ポケットに少し日本のお菓子を持っていたのでお礼に手渡すと。

わざわさタクシーから降りて見送ってくれて、胸に手を当て深々と頭を下げて、
鶴も感激といった感じに喜んでくれました。
こちらこそと思いとほんとに深々と頭をさげました。

パリの人々は本当に何て親切なんだろう。

本当にMerciです。

フルシ―

フルシーの門

メトロ駅StPaur近く直ぐのフルシー通りにある
フルシーと言う名のホステルです。

パリの町はどこもとても大きな門構えです。

昼間、町のあちこちで門が開いているので思わず迷い込んでしまいそうです。

パリの建物は大きくあちらこちらに威圧的な頑丈で古い大きな門があります。
中にお庭があり大きな古い建て物で囲まれています。パリの町はすべてちょうど神戸の居留地と同じ様な建物やもっと複雑で美的な彫刻そのものの建物がものすごい規模でそびえています。言葉では説明できない大きさです。とにかくものすごいです。

フランス記行 フィンランド航空

フィンランド航空

関空から約8時間、現地時間PM3:00フインランド(ヘルシンキ)に到着、
ここからパリ行きの飛行機に乗り替える。

PM4:00出発、3時30分までに乗り込まなければならないので時間がない。
ここまでの飛行機の乗客は日本人のツアーの人達だった。行く先が違うのでパリ行きのゲートまで探して一人でいかなくてはならない。

飛行機を降りてすぐ立っていたパーサーに乗り換えのチケットをみせる。
チケットのゲートがCと書かれていたところをぺんでDと書きかえられる。

ゲートの変更があったらしいい。そのまま進めと合図してくれる方向に進み、掲示板があったので便を確かめようとしたけれど掲示がどんどん入れ替わりわからなかった。

しかたないのでとにかく広い構内を急ぎ足で歩く、途中日本人のスチワーですかパーサーの女性がいたのでどこに進めばよいか尋ねすすむ。

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ヘルシンキ空港構内今考えると搭乗窓口だったと思うけれど入国審査の窓口らしき所につきあたり。

パスポートを提示し終わると、横から出ていけと指示され出ていくと通りにはなつているけれど誰もおらず思わず空港の外に出てしまったのかと思い引き返し、チケットを見せたら。

また無愛想にそっちだと言う顔をされる。

しかたなく通りをすすむとエスカレータがあり下りてみた。

アルファベットの書いた搭乗ゲートがいくつかあつた、だけどDの搭乗ゲートには誰もいない。乗客らしき人も、受付にも、もう3時15分、後、15分しかないはずなのに、向かいのゲートの受付にいきゆびさしたら「クローズ」と言われあせる、飛行機が出てしまったのか,DではなくCだったのか、心臓かもう爆発しそうになる。

困っていると一人の日本人の女性がおりてきてた。その人もすこし困り顔をしているので「日本人ですか?」
と尋ねたら同じ便のチケットをもたれていて同じ様に迷っていた。お一人ではなく御主人もおられ近くのイスに座られていた。少しほっとする。

確かにここのはずだけどどうなっているのだろうと言う話になった。
数人ゲートの近くのイスに座っている日本人らしき二人組の若い女性に「同じ便ですか?」と尋ねたけれど中国人らしく言葉が通じず確かめることが出来なかった。

そうこうしているともうひと組、女性二人の日本人がおりてきて、さっきのご夫婦のお知り合いらしく、どうなっているんだろうとはなしたら遅れているんだと教えてくれた。お二人はよく旅行に来られ旅慣れておられた。

とても安心。(*_*;そうこうしていると受付が始まり乗客も集まってきた。

日本人は5人だけであとは皆、外国人、どんどんこころぼそくなる。
けれどどうにか、乗り換えもクリアー。
後はパリに着いてからホテルまでの関門がまち受けている。


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フィンランド航空の機内食
ヘルシンキからの機内食はナチュラルでオレンジジュースやトマトジュースの他、
青リンゴのジュースもありました。あともちろんコーヒー、紅茶も。
3時間ぐらいの間でしたがチョコレートのサービスもありました。
美味しかったです。(*^_^*)


機内食の写真を撮っていたら斜め前に座っていた少女が私にとても興味をしめしてくれました。
ちょうど和紙の折鶴を持つていたのでプレゼントするとさらに興味をしめしてくれます。
隣にいた友達に折鶴を見せて何やらはなしています。
お友達も鶴がいるかとゼスチャーすると「うん、うん」って感じでした。
でもせっかくなので日本から和三本の落雁と氷の様に砂糖を表面に固めたゼリーの干菓子を持って来たので
2人に和紙に包んでてわたすととても不思議そうにながめていました。
食べるんだよって口に指をあてるとお菓子をながめながらこわごわ口にはこびました。
最初、不思議な顔をしましたが、目を丸くして、すぐ顔がほころび笑顔になりました。
甘い和三本が口の中でとろけてとてもおいしかったことでしよう。
次に砂糖で固めたゼリーを口に運びこれも不思議な甘い食感だったので笑っていました。
日本のお菓子は目で楽しむおかしです。色も形も綺麗で彼女達にはとても神秘的だったのではないでしょうか。
飛行機から降りる時笑顔でバイバイしました。記念に写真をとらせてもらいました。
かわいい少女達、ベネズエラからの旅行とのことでした。

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ベネズエラの少女達
ハイ、ポーズ
パリ、に着くまでの機内で彼女達に癒されました


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シャルルゴールド空港
さあ、パリに到着しました。

フランス記行 出発

 パリへ
7月4日、午前10時45分、大阪(関西空港)発、FINNAIR(フィンランド航空)にてヘルシンキ経由
でパリ(シャルルドゴール)へ向けて出発。

三宮から関西空港までは空港行きバスで直行で約65分、
六甲の自宅からだと約2時間近くかかります。
飛行機出発の2時間前には空港につかなければならないので朝7時前に家を出ました。

この日は,海外へ一人で旅する私を気遣い関空まで母が見送ってくれました。
空港に着いてまず両替を済ませ、二人で喫茶店でモーニングしてから搭乗ゲートに
いいよいよ出発です。

母はとても心配そうな顔でいつものことですが「気をつけなさい」と見送ってくれました。

実はこの時、ゆっくりしすぎて飛行機の出発ギリギリだったんです。搭乗ゲートからモノレールで搭乗口まで行くエスカレーターでスチワデースにチヶトを見せたら急いでくださいと言われ大慌て
、私が飛行機に最後に乗り込んだ乗客でした。
フィンランド航空、パーサ――とスチワデースが遅かったのでチヨットむっとしてる様な気がして。(*_*;
「Excuse me」というと年配のスチワーデスさんがン「No problem」と言ってくれてちょっと安心。(+_+)
席に着いてすぐ飛行機は動き出し離陸です。いよいよ私の旅はここからはじまりました。

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フィンランド航空(ヘルシンキ)

旅立つ翼

飛行機が飛び立つ瞬間

とても感動した

なぜならこの瞬間をむかえるまでに

どれほどの年月がかかったことか

それなのに夢は、一瞬にこえてしまっていた

行動をおこすことそれだけでこんなにも簡単に越えてしまえた

長い間、自分のこころの翼の羽に恐れと言う重い荷物を乗せたまま扉にまで錠をかけていたのだから

私は飛んでいる非現実的にではなく現実的に明らかに本当に空の雲のうえにいるのだ

考えると少しおかしくなリ笑ってしまう。

だって本当に飛行機に乗って飛んでいるんだから。


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神戸の港と北野の風景

旅立つ前に手掛けた作品です。

この作品は私の想像を超えた作品でした。このアイデアを提案して下さった方に作品もですがフランスへの
旅も背中を押し出していただき新しい扉を開く切っ掛けとなりました。

そして私はほんとに空を飛びフランスでパリとアビニョンを駆け巡ったのです。

Bonjiour

7月31日、午前にパリから帰国いたしました。

フランスはパリ、南フランス,ブロバンスのアビニョンに約一か月間滞在しておりました。

フランス語も話せず、英語も満足に話せない私が無事に日本に帰ってこれたのは

国境を越えて出会った人達に助けられたからです。もちろん日本人にもですが。

改めて皆様に出会えた奇跡に感謝いたします。


それでは旅行中しばらくブログはお休みしておりましたが

これからフランス記行掲載いたします。

一度には御紹介できないので時間をかけて掲載いたしますのでお時間がある時に

「異人館街の魔女TOOKO」のブログを開いていただければ幸いです。

今後とも宜しくお願いいたします。

TOOKO
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