Caprice

“Caprice”は「気ままに」って意味です、気ままなLifeのらくがき帳、おもしろい事、楽しい事、興味のあること、ハンドメードまで“カプリス”です!!
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父に捧ぐ

フランス紀行まだまだ前半しか掲載していませんが

本日は8月15日、お盆でもあり67年目の終戦記念日でもあります。

私の父の供養に少しそのことについて触れたいと思います



父に捧ぐ終戦記念日にそえて


私は戦争を知らない子供たち世代です。

ただ私の世代では珍しく父は大正13年6月13日生まれでした。

13年前に75歳で亡くなりましたが生きていれば85歳です。

父は青春時代、海軍に志願し大日本帝国海軍でお国のために戦った人でした。

それは父の誇りでもありました。

そんな風に今の時代話すととても滑稽ですが、戦争を知っている生き証人としてはとても

貴重な体験を私達家族に話し聞かせてくれたのではないかと思います。

少し父から聞いた戦時中のお話をしたいと思います。

父は松下電気(今のナショナル)の専門学校を経て、横須賀の兵学校、海軍後期学校に志願したそうです。

海軍では攝津(潜水艦)に乗り、下士官として機関兵として勤務していたそうです。

兵学校は厳しく随分しごかれたとききました。グループで誰かミスをすると全体責任で上官からひどく叱られ、

某でひどくおしりを殴られたそうです。「歯をくいしばれ」と殴られ、おしりの皮がすりむけて、

座れなくなるほどひどく殴られたそうです。軍隊では日本人は同じ日本人でありながら

随分ひどいことをしたものです。

ただ海軍は船に乗るととても紳士的な軍隊で、西洋のマナーなども学んでいたようです。

食事の時はテーブルマナーも厳しく正装してテーブルにつくといった感じで陸軍とは違いとても優雅な場面もあっ

たようです。ほんとに父の軍服姿の写真や軍隊時代の写真が残っていますが、戦時中でありながら凛々しく

イギリスの衛兵交代を思わせます。

なので父は少し西洋人的な感覚でとてもお洒落な人でした。

またたばこやチョコレートなど配給があり食事もとても良かったようです。物のない時代に

家族のために配給された物を休暇の度に持ち帰っていたようです。

その時代亡くなった人たちはお国のために死んでいったんだと言われ。

本音は「お母さん」と叫んで死んだんだと・・・

誰もお国のためだけに死んだのではないことは事実でしょう。

軍隊に志願したひとたちは、日本国に洗脳されて志願したんだと言う人もありますが。

恐らく物のない時代少しでも家族の為にお給料や物資を持ち帰る為に志願したというのが

本当の気持ちだったのではないでしょうか。

戦場で亡くなった人たちの多くは家族の為に命をおとしていった。

誰ひとりとしてお国の為にと何の恨みもない人達と戦うこと望んではいなかった。

軍隊の上層部以外のほとんどの日本人は他国の人と殺し合う理由はなかったはずです。

ただ無理に召集されたり、家族を養うためではなかつたかと思います。

おかげさまで父は潜水艦の機関兵でした。

一度も人を殺めることなく、終戦をむかえました。

それがとても救いです。

だからこんな風に話が出来るのだろうと思います。

ただ父も、何も見なかったわけではありません。

多くの戦友達が戦地で亡くなったわけではなく訓練中に亡くなった人も沢山いたとの話しです。

皆、戦士と家族には知らされていますが、多くが違う理由で亡くなっているのです。

父の兄(私の伯父は)南米に派遣され、部下がいなくなり気がつけば人食い人種に食べられていたとの話

しも聞きました。

母方の祖母はビルマに派遣され、ジヤングルでトラに襲われた人もいたとのはなしです。みんな家族は

本当のことは知らされていないけれど本当にひどい話です。

チヨット祖父の話しにも触れたので少しここで祖母のお話もしたいと思います。

私の祖母は終戦の5カ月前の4月16日に33歳の若さで私の母を含め4人の子供達を残して

結核で亡くなりました。母は長女で小学2年生だったそうです。あと上に兄と下に弟と三歳の妹がいました。

祖父が戦争で召集されているため。兄弟バラバラでひきとられ、物のない時代小さな弟と妹は親戚の家で随分時

じやけんにされたようです。あまりひどい目にあった妹は子供のいない親戚にもらわれていきました。

その後もけして幸せではなかったと叔母ははなします。数年前、岡山の祖母の生まれた家を母と尋ねました。

昔、母は兄弟達と暮らした家に行ってみたかつたのでしょう。

ここで母は育ち、暮らしていたのだと思いました。母が幼いころ鶏が卵を産む度にままごとに

使いおばあさんにおこられて閉じ込められた、大きな蛇(主)のいる蔵、竹林、母の思い出話がそこにありました。

私は祖母の家にそれまで一度も訪れたことがなく全く親戚の付き合いもなかったことにとても残念に思いました。

祖母が生きていれば出会っただろう親戚達との思いでがいっぱいあっただろうに。
 
戦後、67年、たってもいえない母達の心の傷、そして私達の運命も大きく変わったことだろう。

けして、戦争は私達、戦争を知らない子供達と無関係ではないのかもしれません。

とても尊いものを私自信もいっぱいなくしたのだと思いました。

祖父は戦後再婚し最近その義理の祖母も最近なくなりました。

義理の祖母のご主人は特攻隊でなくなったそうです

お燗の経帷子の祖母の顔はつらい時代を生き抜いた、そんな顔にみえました。

新しく手に入れた家庭をまもるためでしょう。

私の母につらくあたったこともあつたと話を聞いたことがあります。

亡くなる前祖母は母に「堪忍ね」となんどもあやまりました。

67年の母の深いこころの傷あとです。

でも、義理の祖母は母が結婚してからはとても私達家族に良くしてくださり。

私もかわいがってくださいました。

みんな仲良暮らせたはずがなかなかそういかなかったのでしょう。

それを思うととても残念です。

いろんなことで人の運命なんてかわるのかもしれないけれど。

考えればかんがえるほど残念におもいます。

でも、母と私はとても幸せです。

明日、命がないかもしれない時代を生きた父は深い思いやりを持ったとても優しいひとでした。

軍隊で友達が戦士していくなかで悲しいという感情はなく明日は自分も、そうなるかもしれない。

今の時代、何があろうと命をとられることはない。何があろうとたいしたことではない。

良く、そんなことも話していました。

「ケセラ、ケセラ」で行けばいい。

「くよくよするな どうにかなる。」

死の床でありながら亡くなる前に良く病院で私を逆に励ましてくれたものです。

戦争が終わり67年、父のような生き証人はどんどんいなくなります。

でも私は父からとても大切な魂を育まれたように思います。

戦艦大和が沈み、広島、長崎に原爆がおとされ、多くの犠牲のもとに戦争は終結し

今の私達の幸せな時代があるのでしよう。

人間の思い上がりやおろかさはすべてを滅ぼす。

恐ろしいことですね。

このたびフランスの旅で感じたことですが国境って本当に関係ないって。

人に国境はないんだと

だから世界全体のことを考えて,日本人も目先のお金だけじゃなくて明日に食べる美味しいご

飯のほうが大切ではないかとおもいます。

自然を大切にしなければ水どころか空気も無くなってしまうことを

誰もがわかっているけれど目先のお金で手に入る便利さをなかなか捨てることができなくて。

それだけでなく世の中は複雑になりすぎてとても割り切れない。

でも本気で考えなければならない時代でもあるのでしょうね。

難しいけれど。


終戦記念日、自分には関係ないように思っていた時代もありました。

だけど祖母の生まれた家を訪れ、戦艦大和の映画を観て、

また広島の江田島に行き海軍の兵学校を訪れた時、特攻隊の遺書に触れ、日本人のこころ

を知りました。

終戦が長引けば私は今ここにいないかつたかもしれません。

また、父と母の娘として生まれた私です。

父と母の代弁者として拙いですが8月15日終戦記念日を語りたいと思いました。
 

終わり


次のページは引き続きフランス紀行を掲載いたします。

もうすぐアビニヨンのお話です。

お楽しみください。























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